メッセージ  (説教より)
「マタイによる福音書」


「隠れたことを見ておられる神」   マタイによる福音書6章1-4節

 主イエスは、私たちの善行(あらゆる善い行い)を、人に見せようという意識を持たず、人の目に「隠せ」と言われます。それが、神の祝福に生きる信仰者の生き方である、と言われるのです。明快な教えです。
 私たちは、どんなことであれ善いことをすれば、人に知ってもらい喜ばれたい、と思います。人に喜んでもらうことが、自分自身の喜びともなるので す。人に知ってもらうことで、自分を誇ろうとするわけではないのです。人に喜んでもらうこと自体が自分自身の喜びなのです。それは、人間として自然なことではないかと思うのです。
 人に喜ばれることは、確かに嬉しいことですが、それによって「既に報いを受けている」(2節)と主イエスは言われるのです。もうそれ以上のことを求めなくなる、言い換えれば、神との交わりの中に深く入っていくことがなくなってしまう、と言うのです。人に喜ばれ自分も嬉しいということで止まってしまうのです。しかし、善いことを人の目に隠して、「隠れたことを見ておられる」神にだけ知られるようにすれば、それだけ深く神との祈りの交わりの中に導かれることができる、と主は言われるのです。
 きわめて具体的な信仰の実践論です。善いことをしても人の目に隠すのです。「右の手のすることを左の手にも知らせてはならない」(3節)のです。自分自身にも「隠す」のです。自分に知らせ、自分で満足して終わってしまうのでなく、「隠れたことを見ておられる神」との祈りの交わりの中に入っていくのです。 そこに、豊かな神の祝福に生きる信仰生活がある、と主は言われるのです。