メッセージ  (説教より)
「マタイによる福音書」





「罪人を救うために」      マタイによる福音書 1章1−17節

 マタイ福音書の始めに、救い主イエスの誕生について語られる(18節以下)前に、主イエスの「系図」が記されています(1〜17節)。その系図の中に4人の女性が記され、しかもその中の3人(タマル、ラハブ、ウリヤの妻)は人間の罪の深さを表す現実の中に登場してくる女性です。マタイ福音書がこのような主イエスの系図を隠さない、いや、強調している点にこそ、主イエスが人間の罪の現実のただ中に、そのような人間を救うためにお生まれになった救い主であることが言い表されているのです。
 ダビデは、イスラエルの王として最も恵まれた立場であった時に、「ウリヤの妻」バト・シェバとの間で深い罪を犯しました(サムエル記下11章2節以下)。罪が罪を呼び、いよいよ恐ろしい罪の深みにはまっていく中にあっても、ダビデは自らの罪を悔い改めることができませんでした。忠実な部下ウリヤを非法な手段をもって殺し、自らの罪を糊塗しようとしたのです。罪の虜になって、自らの罪が見えなくなったダビデの姿があります。
そのダビデが、預言者ナタンの「たとえ話」を通して神の御言葉に触れた時(同12章1節以下)、初めてダビデの心は砕かれ、自らの罪に気づかされ、深い悔い改めの心へと導かれたのです。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」  (詩編51編12−13節)
 ダビデが、いや、私たちがこの悔い改めの心の中で主の清き命に生かされるために、主イエスは救い主として私たち人間の罪の現実のただ中にお生まれくださったのです。