メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「自分を救ってみろ」         マルコ福音書15章21−32節

 人々は主イエスを十字架につけ、「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない」(30〜31節)と言って嘲弄しました。
 「自分を救う」とは、どういうことでしょうか。主イエスが、十字架上で心の中で人々を呪うことではないでしょうか。「私こそ本当の神の子メシアであって、私は本来、十字架につけられるような人間ではない。私を十字架につけるあなた方こそ、神に呪われた滅ぶべき人間である」と言って、心の中で自分を誇り、人々を裁くことではないでしょうか。
 もし主イエスが、たとえ一瞬たりとも心の中でそのような思いを抱いたとしたら、それこそ主イエスは「十字架から降りた」ことになり、「自分を救った」ことになるのではないでしょうか。それならしかし、主イエスはメシアとしての業に「失敗した」ことになるのではないでしょうか。十字架の死という罪を贖うメシアとしての最も大切な業において、主イエスは失敗したことになるのではないでしょうか。それなら主イエスは、本当のメシアではなかったことを暴露したことになるのではないでしょうか。
 しかし主イエスは、まさにその点においてこそ罪を犯すことがなかったのです。主イエスは決して、十字架から降りることなく、自分を救うことをなさらなかったのです。人々の激しい嘲りの中にあって、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23章34節)と言って、真実の執り成しの祈りを献げ、それによって御子メシアとしての罪の贖いの御業を成し遂げてくださったのです。