メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「十字架につけろ」        マルコ福音書15章1−20節

 「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放して」おりました(6節)。過越祭における恩赦です。その恩赦によって、ローマの総督ピラトはイエスを釈放したいと思ったのです(9節)。イエスには死刑に処するほどの罪を認めることができなかったからです。それならそれを実行することが、政治家としてのピラトの正しいあり方だったのです。しかし、ピラトにはそれを実行する勇気がありませんでした。人々の要求に屈したのです(15節)。そこに、神の御前における政治家ピラトの誤り(罪)がありました。
 人々は、イエスではなく、「バラバ」を釈放するように求めました(11節)。バラバは暴動の時に人を殺した凶悪犯です(7節)。そのバラバの釈放を求め、イエスを十字架につけることを求めたのです。それほどに主イエスが「憎い」(ヨハネ福音書15章18節)ということなのです。
 なぜ人々は、それほどに主イエスを憎むのでしょうか。主イエスによって自分たちの信仰が「問われている」ことを感じたからです。自分たちこそ正しく神に仕えていると言いながら、心の深みにおいては、自分たちの信仰が神の御前に問われていることを感じたのです。主イエスが神に祝福されている事実を目の当たりにする間に。
しかし人々は、それを認めたくなかったのです。それを認めることは自分たちの信仰の歩みを否定することになるからです。それを守りたかったのです。そのためには、何としてもイエスを十字架につけなければならなかったのです。そして主イエスは、その人々の罪を静かに忍んでくださったのです。