メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






そんな人は知らない」        マルコ福音書14章53−72節

 主イエスには、二つの面があります。神共にいますお方として力強く御言葉を語られ、力ある業(奇跡)を行われる「強い面」と、どこまでも人間の罪を憐れみ、赦し、忍ばれる「弱い面」と。そのどちらも真実な主イエスの姿です。「神共にいます」お方である故に、主はどこまでも真実に人間の罪を忍び、赦すことがおできになるのです。主イエスのご生涯の前半は特に前者の面が強く現れ、後半のご生涯には後者が前面に示されたのです。主イエスは「ゲッセマネの園」における祈りを転換点としてこの180度の転換をされ、今や全くの弱さの中で私たち人間の罪を忍び抜かれる方となられたのです。
 「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61節)という大祭司の問いに、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(62節)と答えられると、大祭司は「衣を引き裂きながら」、「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒?の言葉を聞いた」と言って、主イエスに死刑の判決を下したのです。そのイエスを見て、人々は唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言って嘲弄し、下役たちまでがイエスを平手で打ったのです(63〜65節)。主イエスが「弱く」なられる間に、人間の罪が嵩にかかって主イエスを襲ったのです。
 弱くなられた主イエスの姿を大祭司の中庭で見つめていて、ペトロは躓いたのです。今まで知らなかった、全く別人のイエスがそこにいるように思われたのです。それ故に「そんな人は知らない」(71節)と叫んでしまったのです。一瞬とは言えこの世の闇の力に支配されてしまったペテロだったのです。