メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「律法学者に気をつけなさい」       マルコ福音書12章35−40節

 律法学者たちは、神の約束のメシアはあの栄光に満ちたダビデ王にまさる政治的社会的指導者として登場するはずである、と主張しました。その意味を込めて「メシアはダビデの子だ」(35節)と言って、暗に主イエスを批判しました。それに対して主イエスは、詩編110編1節「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈伏させるときまで』と」という言葉を用いて、ダビデ自身が来るべきメシアを「わたしの主」と呼んでいるなら、どうしてメシアがそのような意味での「ダビデの子」であるはずがあるか(37節)、と言って反論されたのです。
 ダビデにとって「主」(救い主)とは、罪を「清めて」くださるお方なのです。罪こそ最強の敵なのです。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」(詩編51編9節)と祈り、それに応えてくださる方がメシアなのです。ダビデがそのようなメシアを祈り求めたのなら、どうしてそのメシアが政治的社会的指導者であるはずがあるか。真に神の霊に満たされた霊的な指導者こそダビデが心から祈り求めたメシアであった、と主は言われるのです。
 律法学者たちは律法について深い知識を持っている。しかし、その律法を真に成就し得ない自らの、そして人間の深い罪を知らない。そこで救い主を祈り求めることをしない。その点に律法学者の根本的な誤りがある。そういう「律法学者に気をつけなさい」(38節)、と主は言われるのです。