メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「すでに得られたと信じる」     マルコによる福音書11章20−26節

 「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(23節)と主イエスは言われます。不思議な、大胆なお言葉です。
 問題は「少しも疑わない」ことです。「心から信じることができる」ことです。誰も、海に飛び込めと言って、その通りになると信じることはできないのではないでしょうか。主イエスは別として。
 私たちが「少しも疑わず」心から信じることができることは何でしょうか。それは、主イエスの「清き命」に与って、私たちの罪の肉が「清められる」ことではないでしょうか。これなら私たちは心から信じることができるし、「信じたい」ただ一つのことではないでしょうか。主イエスが神の御子メシアとして聖霊の全き満ちあふれの中に、その清き真実のご生涯を歩まれたことを知る間に、その主の清さに与って、この罪の世にあって、私たちもまた、罪「清められた」者として日々を歩むものでありたいと心から願うのではないでしょうか。貧しい自らの肉の現実を見つめながら。
 主イエスが清き真実な歩みの中で、十字架の死を遂げ、復活の命を表してくださったことが事実であることを知ることによって、私たちは罪赦された者として、主の清さに生きる救いの生活を、心から信じることができるのではないでしょうか。それなら、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じ」て(24節)、確信を持って生きることができるのです。