メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「すべての人の祈りの家」        マルコによる福音書11章12−19節

 主イエスは、エルサレムの神殿にお入りになって、「そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され」(15節)ました。また、「境内を通って物を運ぶこともお許しに」なりませんでした(16節)。その上で、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」(17節)と人々にお語りになりました。「宮清め」と言われる行為をされました。
 神殿での物の売り買いは、必ずしも利得のためだけではありませんでした。エルサレム神殿での礼拝のためには、物の売り買いは必要な行為でもありました。神の御前に、罪の赦しのために羊を犠牲として献げるためには、羊を「調達」(購入)する必要がありました。神殿税のためにイスラエル貨幣である「シェケル」を献げるためには、ギリシャ貨幣を「両替」する必要がありました。それらの商行為を迅速に行なうためには、神殿の境内を「通行」することは避けられないことでした。
 主イエスの「宮清め」は、エルサレムの神殿礼拝そのものの否定と終焉を意図していたのです。エルサレムにおいて、主イエスの十字架の死と復活が成就されるなら、それによってすべての人間の罪の赦しと救いの道が拓かれることになるからです。神殿礼拝は、今や、神の御子イエスの十字架の死と復活によって、その使命を終えることになるのです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言って、「宮清め」をされる主イエスの行為の背後には、そういうお考えが込められているのです。