メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「偉くなりたい者は」       マルコによる福音書10章35−45節

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37節)と、二人の弟子ヤコブとヨハネが主イエスに申し出ました。主イエスが救いの御業を全うされ、神の御子、メシアとしての「栄光」を受ける暁には、自分たちを主の栄光の座の右と左に座らせてください、と願い出たのです。自分たちが主の弟子として大いなる神の祝福に与るものでありたい、と願ったのです。
三度目の主イエスの受難予告(32−34節)によって、主イエスの受難が避けられない事実であることを知った時、弟子たちは、主イエスと共に歩んだ主の弟子としての自分たちの歩みが「空しいもの」とならないように、何らかの「保障」を得たいと考えたのです。主イエスの受難予告によって深い動揺を覚えさせられた弟子たちの心の中に、きわめて人間的な肉の思いが露わになったのです。
しかし、主イエスの弟子としての「栄光」は、単に主イエスの約束によって与えられるものではなく、実際にイエスが飲む「杯」を飲み、主イエスが受ける「バプテスマ(洗礼)」を受ける者(38節)、すなわち、主イエスの十字架の苦しみに深く与り、それによって主イエスの復活の命に豊かに生かされることのできる者、そういう者に与えられるのです。「偉くなりたい」と思う心がいけないのではないのです。「偉くなりたい」と思う心を主イエスに「仕える」(45節)ことに向けるのです。深く主イエスの十字架と復活の恵みに生かされる者となるのです。そこに、主の栄光に与る道があるのです。