メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「人々の不信仰に驚かれた」        マルコによる福音書6章1−6節

主イエスはご自分の故郷ナザレでも御言葉を宣べられました。しかしナザレの人々は、主イエスの力ある御言葉を素直に聞くことができませんでした。主イエスの「素生」を知っていたナザレの人々は、イエスだけが特別に神から恵みを受けている事実を、どうしても認めることができなかったのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(3節)という思いが、彼らの従順と信頼を妨げたのです。
 神から恵みを受けることは、私たちの「素生」や「能力」によることではありません。神の御言葉を心深く受け入れて、自らの全てを神に委ねることができるかどうかなのです。まさにあの救い主の母マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1章38節)と言って、自らの全てを神の憐れみの恵みの御手に委ねることができるかどうかなのです。主イエスは、誰よりも真実にそのことをすることがおできになったのです。それ故に主イエスは、神の御子、メシアとして父なる神の特別の祝福の中に生きることがおできになったのです。ナザレの人々はそういう主イエスを愛と信頼の中に受け入れるべきであったのです。
 主イエスは、ナザレの人々の深い不信仰に驚かれました。それならしかし、そういう人々は滅んでも仕方がない、と思われたのではなかったのです。そういう人々が神の真実の愛と赦しの恵みに心開く者となることができるように、いよいよ罪を負う苦難の歩みを深めるべく歩みを進めていかれたのです。