メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「主の憐れみを告げ知らせよ」      マルコによる福音書5章1−20節

 「悪霊に取り付かれた」ゲラサの人のいやしの出来事は、特殊な人間のいやしの問題ではなく、すべての人間の心の中に主イエスを受け入れる際の普遍的な「魂の」救いの問題として理解することができます。
 「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5節)ゲラサの人の姿は、主イエスを心の中に「主」と受け入れる前の、私たち人間の、果てしなく「思い煩う」魂の姿として理解することができます。
 そして私たちは、主イエスを心の中に主と受け入れることができれば、心の本当の平安を得ることができることを承知しながらも、それをしたくないと思う気持ちが働くのです。「このままでいたい」と思うのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」という叫びは、そういう私たち人間の矛盾した心の姿を映しているのです。
 その時、主は、断固として言われるのです。「汚(けが)れた霊、この人から出て行け。」(8節)と。断固としたお言葉の中で、「死人をよみがえらせる」全能の主の御力が働いて、果てしなく「思い煩う」私たちの心がいやされ、「主にある」本当の平安へと導かれるのです。
 私たちの魂を「支配している」悪霊の本質が何であるかが、「レギオン」(9節)と呼ばれる悪霊が乗り移った二千匹の豚が「崖を下って湖になだれ込み」(13節)おぼれ死んだという事実の中に示されています。滅びに向かう悪の力が、私たちの魂を支配しているのです。そのような力から開放してくださる主イエスの恵みがどんなに大きなものであるかが、改めてわかるのです。