メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」






「自分を隠される主イエス」 マルコによる福音書3章7−12節

主イエスの福音宣教はまだ始まったばかりでしたが、早くもファリサイ派の人々を中心に、主イエス殺害の動きが始まりました(6節)。しかし、今はまだ「その時」ではなかったのです。今はまだ主イエスの宣教の時なのです。主イエスの福音が多くの人に知らされ、罪人を救う神の憐れみの恵みが十分に伝えられなければならなかったのです。そのことがなされた時、「時満ちて」主イエスは十字架の死を全うされるのです。
「おびただしい群衆」(7、8節)が主イエスのもとに集まって来るのは、単なる御利益のためではありません。主イエスの存在と教えに「真理」があるからです。「神共にいます」真理があるからです。人々は「イエスのしておられることを残らず聞いて」(8節)そのことを実感したのです。それ故に、人々はイスラエルの国境を越えて、主イエスのもとに集まって来たのです。
その時、主イエスは「小舟」(9節)に乗って、人々から少し距離をとったところで、御言葉を語りました。適度の距離が必要なのです。主の御言葉が正しく語られ、聞かれるためには。私たちの思いが御言葉を支配するのではなく、主の御言葉が私たちの心を支配し、生かし、清めてくださるために。
 主イエスは、「けが汚た霊」が主イエスの前にひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫ぶことを禁じました(11−12節)。それが本当の信仰告白ではなかったからです。本当の信仰告白は、主イエスを告白することによって、主イエスの「清さ」に生きようすることなのですから。そして、主イエスが「神の子」であることを正しく告白することができるのは、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、その出来事の恵みに与ることによってのことだからです。それ故に主イエスは、汚れた霊の叫びをお許しにならなかったのです。