メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「隅の親石となった主イエス」
           マルコによる福音書12章 1−12節


 主イエスは「ぶどう園」のたとえをお話になりました。「まだ一人、愛する
息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子
を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。
そうすれば、相続財産は我々のものになる』」(6〜7節)。
このたとえは何を意味しているのでしょうか。「ぶどう園」は主人によって
「貸し与えられた」恵みであるのに、それを「自分たちのもの」にしてしま
うということ、そのことは、神から「貸し与えられた」信仰の恵みを私物化
してしまうこと、信仰を自分の所有物にしてしまうことを意味しているので
はないでしょうか。
 私たちは「信仰」を、人生の歩みの中で自分で苦労して獲得したもののよ
うに考えがちではないでしょうか。しかし信仰は、神が私たちを愛し、憐れ
んで「貸し与えて」くださった恵みなのです。それは決して「私物化」されてはならないのです。私物化された信仰は「腐ったマナ」(出エジプト16章
20節)と同じで、神の恵みとしての力を失うのです。言い換えれば、罪と戦
う力がないのです。自分を愛することのためには大いに力を発揮しますが、
人を愛し、赦すこと、まことの清さに生きることにおいては力を失うのです。
 どうしたら真の信仰に生きることができるのでしょうか。真の信仰の恵み
は主イエス・キリストご自身の中にあります。主イエスは「人には捨てられ
た」が、「隅の親石」(10節)となってくださったお方です。十字架の死を通
して、復活の命を明らかにしてくださったお方です。すべての人間の罪を赦
し、すべての人が罪と死に勝利する復活の命に生きることができるように招
いていてくださるお方です。即ち、すべての人間の生きることの「土台」と
なってくださったお方です。このお方のもとに日々新しく立ち返り、このお
方から常に新しく信仰の恵みをいただくのです。その時、私たちは力強く、
生きた信仰に生きることができるのです。