メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「キリストの権威」
           マルコによる福音書11章27−33節

 イスラエルの信仰の指導者たち(祭司長、律法学者、長老)が主イエスの
「宮清め」に対して「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、
そうする権威を与えたのか」(28節)と問いただしました。
 主イエスの「権威」は、「神が共にいてくださる」(インマヌエル)の権威
です。主イエスと共に神が御臨在くださることによって、主イエスは力ある
歩みをすることがおできになったのです。マタイ福音書7章29節に「律法学
者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と記されています。
御言葉を語る主イエスに、神が共にいてくださることによって、主イエスの
語る言葉は、まるで神がお語りになる御言葉のように、権威(力)ある言葉
として人々の耳に、心に響いたのです。
 ただ主イエスは、そのご自分の権威を声高に主張することなく、事実神が
共にいてくださる恵みの中で、身を低くされ、「ののしられてもののしり返さ
ず、苦しめられても人を脅さず」(ペトロ一2章23節)、人間の罪を負う十字
架の死を全うすることによって、その権威を実証されたのです。ここに、主
イエスの真実の権威を見ることができます。
 私たち主イエスを信じる信仰者にも「権威」が与えられているのではない
でしょうか。世にあって人々に「一目置かれる」権威が。信仰者の権威とは
「主が共にいてくださる」権威です。どんな時も主イエスに立ち帰り、主の
愛と赦しと助けの中で、肉の思い清められた歩みをすることによって、その
ような権威を証することができるのではないでしょうか。それが「塩味」(マ
ルコ9章49〜50節)のきいた信仰者の生き方でもあると思うのです