メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「神を信じなさい」
           マルコによる福音書11章20−26節

 主イエスが空腹を覚え、いちじくの実を捜したが、実のなる季節ではなか
ったために、実を見つけることができなかった。そこで主イエスがいちじく
の木を呪うと、いちじくの木は根元から枯れてしまったということが、マル
コ福音書11章12節以下に記されています。なぜ主イエスは、実のなる季節
ではないにもかかわらず、いちじくの木を呪われたのでしょうか。
 この乱暴とも思える行為を通して、主イエスが弟子たちに訴えようとされ
たことがあったのではないでしょうか。それはこういうことではないでしょ
うか。今の主イエスの十字架の死に向かっての歩みは、どんなことがあって
も守られ、支えられなければならない。なぜなら主イエスは、今、人類史上
最大の、唯一無二の救いの御業を実行しようとしているのだから。それ故に、
この主イエスの歩みは万難を排して守られ、支えられ、支援されなければな
らない。そういう思いを主イエスは弟子たちに訴えようとされたのではない
でしょうか。いちじくの木を呪うという行為をもって。
 主イエスは今、十字架の死に向かう歩みを進めておられるのです。この歩
みを主イエスが真に全うすることができるように、どんなに苦しくても敵を
呪わず、絶望せず、神への信頼と人々へのとりなしの祈りの中に十字架の死
を全うすることによって、誰もが果たすことのできない復活の命の道を切り
開き、それによってすべての人間の罪の赦しと救いの道を実現することがで
きるように、主イエスの苦難の歩みは何としても守られ、支えられなければ
ならない。そのためには、主イエスがその歩みの途上で空腹を覚えていたの
なら、いちじくの木はたとえ季節でなくても実をならせて、主イエスの空腹
を満たし、主イエスに仕えるべきである。そういうことを主イエスは言わん
としておられるのではないでしょうか。いちじくの木を呪うという乱暴とも
思える行為の中に、そのような主イエスのお心が示されているのではないで
しょうか。