主イエスは、マルコ福音書13章3節以下で「世の終わり」(終末)について
語っておられます。一言で言えば、人間の隠された罪がいよいよ露わになり、
それによって困難や悲惨が増大する。それが世の終わりの「徴」(4節)であ
る。そういうことが語られています。「民は民に、国は国に敵対して立ち上が
り〜」(8節)
主イエスはどこからこのような世の終わりについての認識を得ておられる
のでしょうか。それは、これから主イエスご自身の身に起こる十字架の出来事
からなのです。その出来事を踏まえつつ、主イエスは世の終わりについて語っ
ておられるのです。
主イエスの十字架の出来事はどういう出来事だったのでしょうか。それは、
主イエスを受け入れない人間の不従順から起こった出来事でした。ただその
時、人々は自分たちが神に対して罪を犯しているとは考えなかったのです。自
分たちは正しい、この男イエスこそ神を冒涜する偽メシアであるとして、イエ
スを呪いの木につけたのです。つまり、主イエスの十字架の出来事は人間の罪
が「正義」「信仰」の名のもとに行われたのです。正義、信仰の名のもとに罪
が行なわれたのです。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると
考える時が来る」(ヨハネ16章2節)と言われていることが主イエスの十字
架において行なったのです。
主イエスはご自身の身にこれから起こる十字架の出来事を踏まえながら語
っておられるのです。隠された人間の罪が罪としてその本来の姿を露わにす
る時が来る、それによって、改めて人間が神の御前に本当に罪深いものである
ことが明らかになると共に、主イエスの十字架がそういう人間の罪(過去、現
在の罪だけでなく、将来の罪も!)を全て担っていてくださる尊い出来事であ
ることがいよいよ明らかになる、そういう時が必ず来る、そういう時に向かっ
て時(歴史)は進んでいる、と主イエスは言われるのです。
しかし、どんなに人間の罪が露わになっても、主イエスの十字架と復活が罪
に勝利する唯一つの恵みの出来事である事実に変わりはないのです。世の終
わりの歩みの中で私たち自身の罪も露わになります。そうであれば、いよいよ
深く主イエスの十字架と復活の恵みにより頼みつつ生きる以外にない、と思
うのです。
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