メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「イエスを試そうとした」
              マルコによる福音書10章 1−12節


 ファリサイ派の人々が「イエスを試そうとして」、「離縁」(離婚)の問題を
取り上げました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」
(2節)と。離縁の問題は当時の社会においても大きなそしてデリケートな問題
でした。この問題に対して主イエスは、たとえ「離縁」がモーセの律法によ
って認められたとしても、そこに「姦通」(11〜12節)の罪が働いていること
があり得ることを見落としてはならない、と鋭く指摘されたのです。
 「モーセはあなたたちに何と命じたか」という主イエスの問いに対して、
ファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しまし
た」(4節)と答えました。確かに旧約聖書申命記24章1〜4節にそのことが
書いてあります。しかしそれは、単に離縁状を書けば、離縁することが許さ
れると言って済む問題ではなく、離縁状を書くその心の中に「姦通」(姦淫)
の罪が働いていないかどうかが問われるべきである、と主イエスは言われる
のです。そういう罪があるなら、その罪を神に言い表し、神の赦しを請いつ
つ離縁状を書くべきなのであって、ただ離縁状を書けば、それで離縁が許さ
れると安易に考えるのは、神の御心ではない、と主イエスは言われるのです。
 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5
節)と主イエスは言われます。確かに離縁状を書けば、離縁が許される。し
かし、だからと言って、神の御前に自分は正しい、罪がないと誇るのではな
く、離縁状を書くことの中に「姦通」の罪が働いていないかどうかをよく吟味
すべきである、と主は言われるのです。その点で心を頑なにせず、正直であ
るようにと言われるのです。そうでなければ、たとえ離縁状を書いて、離縁
したとしても、神の御前に「姦通」の罪に問われることを免れることはできな
い、と主イエスは指摘されるのです