メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「墓場を住まいとしていた」    マルコによる福音書5章1−20節

 5章1節以下に記されているゲラサ人の姿は異様です。墓場を住まいとし、鎖につながれてもそれを引きちぎり、昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいたりしていた(3−5節)、と記されています。
 このゲラサ人の姿は、心の真の平安(統一)を失い、果てしなく思い煩う私たち人間の姿を指し示しているのではないでしょうか。「思い煩い」(メリムナ)は「部分」(メロス)から派生した言葉です。心に真の中心がないため、心が部分部分に分かれ、果てしなく「思い煩う」のです。主キリストこそ心の真の中心です。主が私たちの心の中心にご臨在くださる時、羊が羊飼いの下に一つに集められるように、心は統合され、真の平安が与えられるのです。
 主イエスが、ゲラサ人と対面(対決)し、「汚れた霊」の追放を命じられると、汚れた霊は豚の中に入ることを求めました。汚れた霊が豚の中に入ると、二千匹もの豚が崖を下って湖になだれ込み、湖の中でおぼれ死んだのです。これによって、ゲラサ人がいかに多くの「汚れた霊」によって悩まされ、苦しめられていたかが分かります。
 正気になった彼が、主イエスの弟子になりたいと願い出た時、主イエスは「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。主は、この男の救いのために、夕方、危険を冒してガリラヤの湖を渡って来られたのです。そこに、ゲラサ人に対する主イエスの深い愛が証しされています。主イエスの十字架は、私たち一人ひとりに対する主の愛の証しなのです。