メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「聖霊を冒とくする罪」        マルコ福音書3章20−30節

 信仰の指導者である律法学者たちは、主イエスに対して「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22節)と批判しました。
 主イエスが「聖霊の力」によって生きておられることを認めようとしない信仰の指導者たちこそ、「ベルゼブルに取りつかれている」者であり、「聖霊を冒とくする者」(29節)と言わざるを得ませんが、彼らはそのことに気づかず、信仰の指導者を自認しているのです。ここに人間の深い罪の問題があります。
「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(27節)と主イエスはたとえを用いて話されました。
 一人の人間の中から「悪霊」が追い出され、「聖霊」によって心が解放され、神の救いに生かされるようになるためには、その人の中の一番「強い人」がまず「縛り上げられ」なければならないのです。私たちの中で一番「強い人」とは何でしょうか。それは自我であり、自己愛であり、自負心です。これが「縛り上げられ」、取り除かれなければ、私たちは「強い人」から解放されることはできないのです。「強い人」の支配の中に生きざるを得ないのです。
 どうしたら私たちの中の「強い人」を「縛り上げる」ことができるのでしょうか。主イエスにおける神の底なしの愛と赦しに接することによってです。「あなたのすべての罪はわたしが赦したから、わたしの命によって生きる者となりなさい」という主イエスの愛の招きを聞き続けることによってです。