メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「安息日は人のために」      マルコによる福皆書3章1-6節

 会堂に片手の萎えた人がおり、人々はイエスを訴えようとして、安息日にイエスがその人を癒すかどうか、注目していました(2節)。
礼拝とは、心を神に向け、神を賛美することです。しかし人々は、イエスを訴えようとして、イエスが病める者を癒すかどうかうかがっていたのです。すでに礼拝の姿勢が崩れてしまっているのです。人間的な思いに心が囚われているのです。惨めな、無力な安息日の礼拝の状況と言わざるを得ません。
 主イエスは病める者を会堂の真ん中に立たせ、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」 と人々に尋ねられました。主イエスは正しい答えを求めたのではないと思うのです。人々との「対話」を求めたのです。主イエスとの対話の中で、人々が安息日の意味について、新しく学ぶことを願われたのです。
 しかし、人々は黙っていました(4節)。主イエスとの対話を拒否したのです。主イエスに対して心を閉ざしたのです。その点で主イエスは人々の心の頑なさを怒り、悲しまれたのです。そして病める人に「手を伸ばしなさい」と言って、癒しを行われたのです(5節)。
安息日に主イエスが癒しを行われたことは何を意味するのでしょうか。安息日は、私たちが礼拝を献げる前に、神ご自身が病める私たちの魂に臨んで、 私たちを癒し、それによって私たちが心から神を賛美することができるよう に、神ご自身が恵みを与えてくださる時なのです。それが安息日礼拝の意味なのです。主はそのことを教えようとして、安息日に癒しを行われたのです。