メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「人の子は安息日の主」        マルコによる福音書2章23-28節

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)と主イエスは言われます。
「安息日」(礼拝日)は、人を生かす(救う)ために定められているのであって、安息日を守ることが人に不自由を強い、そのために人が力強く生きることができないのであれば、それは本末転倒である、と主は言われるのです。人を解放し、真に人を生かす安息日(礼拝日)の守り方でなければならないのです。私たちの礼拝の在り方が問われているように感じます。
 その後に続けて、主イエスは「だから、人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われるのです。どうしたら人を生かし、救う安息日の守り方となるのでしょうか。それは、安息日をただ「律法」として守るのではなく (守るべきだから守るというのではなく)、神の赦しと愛が明らかになる時として、 どんな罪ある人間も救われることができる神の救いが明らかになる時として、安息日を守ることによって、そのことが可能となるのです。
 言い換えれば、神の御子イエス・キリス卜の十字架と復活、聖霊による主キリストのご臨在が明らかになるような仕方で、安息日を守るのです。まさに、安息日において、主イエスが「主」(キュリオス)として心から崇められなければならないのです。その意味を込めて、主イエスは「人の子は安息日の主でもある」と言われたのです。
 主イエス抜きの、主イエス不在の礼拝であってはならないのです。私たちの礼拝の在り方が問われていることを思わされます。