メッセージ  (説教より)
「マルコによる福音書」


「まだ暗いうちに、祈っておられた主イエス」       マルコによる福音書1章35-39節

「シモンとその仲問はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った」(36節〜37節)とあります。
ペトロたちは主イエスと共にいると、心が平安であり、安心なのですが、主イエスから離れると、心の不安を覚えたのです。その意味で、ペトロたちはすでに「立派な」主の弟子となっていたのです。
 主イエスから離れると、人間的な肉の思いになり、罪に負けてしまうのですが、主と共にいると、不思議に心が平安になり、あらゆる罪の誘惑から守られ、確かな歩みをすることができる。ペトロたちはそのことを実際の体験から知ったのです。それ故に、いつでも主と共にいたいと願い、主イエスの姿が見えなくなると、慌てて主イエスを捜したのです。主イエスを捜し求めるペトロたちの姿は、子供っぽいように見えますが、肖分の弱さ、罪深さを知る故に、真剣に主イエスを求める信仰者の姿を映しているのです。
 主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)と言われました。「宣教する」とは、神の言葉を宣べ伝えることです。御言葉によって主イエスの救いを知るのです。いや、御言葉によって主が共にいてくださる恵みを知るのです。それなら、主イエスの姿が見えなくても、御言葉をいただけば、主と共にあり、主にある平安の中に生きることができるのです。それなら、主イエスの姿が見えなくても、慌てふためくことはないのです。主イエスはその意味を込めて、わたしは宣教する、そのために出て来たのであると言われたのです。