メッセージ  (説教より)
「ルカによる福音書」


 「救いを待ち望む人々」         ルカ福音書2章22−38節

 幼子イエスの両親は、モーセの律法の定めに従って、幼子を神に献げるためにエルサレム神殿に上りました。その律法の定めとは、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(24節)というものでした。これは、旧約聖書レビ記5章7節によれば、「貧しくて羊や山羊に手の届かない場合」の定めでした。このことから、幼子イエスの両親が貧しい家の人々であったことが分かります。
そのような貧しい家庭に生まれた幼子イエスに、誰が注目するでしょうか。しかし、老信仰者シメオンは、この幼子こそ、神の御子メシアであること、ここに神の救いがあることを、聖霊の導きの中で、知ることができたのです。
 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)とあります。それならシメオンは、毎日、今日メシアに会えるかもしれない、という期待と緊張の中に、祈りつつエルサレム神殿に上っていたに違いありません。そのシメオンが、両親に連れられて神殿に上って来た幼子を見た時、この幼子こそ、神が遣わされるメシアである、と見抜くことができたのは、ある意味で当然のことだったのではないでしょうか。何の変哲もない、普通の、いや、貧しい幼子なのです。しかし、この幼子こそ、神共にいますインマヌエルそのもののお方なのです。救い主は、幼子の時からすでに救い主なのです。成長して、これから救い主になるのではないのです。ここにすでに神の救いがあるのです。「救いを待ち望む人々」(38節)は、このことを知らなければならないのです。