メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」

11.27 「メシア到来の希望」    ヨハネ福音書7章25−31節

 メシア到来を待ち望む信仰が旧約聖書を貫いて神の民イスラエルの中にありました。人々はどういうメシアを待ち望んでいたのでしょうか。「ダビデの再来」という政治的なメシア待望もありましたが、「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ12章2節)としてのメシア待望が聖書本来の信仰のあり方でした。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(詩編51編12〜14節)というダビデの祈りに答えてくれるメシアを人々は真に待ち望んだのです。
 しかし、現実に主イエスがメシアとして登場された時、イスラエル社会は根底から揺さぶられ、主イエスを巡って意見が二分される状態に陥ったことが、7章25節以下から伺えます。人々の信仰が根底から問われたのです。
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。」(28節)と主イエスは言っておられます。氏素性で判断するなら、とてもわたしがメシアであると信じることはできないだろう、しかし、わたしが「自分勝手に」メシアを自称しているのではなく、真実なお方が事実わたしと共にあり、そのお方の力によって今わたしが生きていることを信じることができるなら、あなたがたはわたしがまことのメシアとして神から遣わされた者であることを知ることができるであろう、と主イエスは言われるのです。