メッセージ  (説教より)
「創世記」





「イサク誕生の予告」         創世記18章1−15節

 アブラハムが三人の旅人をもてなす場面が記されています。アブラハムのその時の姿が卑屈に思えるほどに「低姿勢」なのです。「アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。・・・』」(2節以下)。こう言って、アブラハムは上等の小麦粉「三セア」(23L。100人分のパンができる)を用いてパンを作り、旅人をもてなしたのです。
 なぜアブラハムはこれほど親身に旅人をもてなしたのでしょうか。旅人をもてなすことは、砂漠に生きる人々の常識であり義務でしたが、何よりも神の聖なる律法(ローマ12章13節)でした。アブラハムはそれを知っていたのです。旅人をもてなすことが、何よりも神に喜ばれ、祝福されることを知っていたのです。
 アブラハムは、自分が神の御前に本当に弱く罪深い人間であることを知らされました。繰り返し語られる神のイサク誕生の約束を疑い、遂には女奴隷ハガルによって跡継ぎを得ようとしたのです(16章)。そしてそのことが深刻な家庭争議にまでなったのです。そのような不実なアブラハムにも関わらず、神は彼をお見捨てにならず、改めて息子イサク誕生の予告を与えてくださったのです(17章19節)。その神の限りない憐れみの恵みを知った時、アブラハムは本当に心砕かれた者とされ、深い喜びと感謝の中にいよいよ主の僕として生きる志を与えられたのです。その姿がここに表わされているのです。