メッセージ  (説教より)
「創世記」





「契約と割礼」            創世記17章1−14節

 創世記15章6節に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記され、信仰によって「義とされる」(神に受入れられる)という信仰の「基本原理」が明らかにされましたが、その信仰義認の大原則が創世記17章において「契約と割礼」によって一層明確にされているのです。
 「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする」(7節)と言われています。あなた(アブラハム)が神ヤーウェを信じて生きるなら、神もまたどこまでも(永遠に!)あなたを守り、あなたを祝福するという神の約束です。
 神の救いの約束を「契約」という形で保証しているのです。信じる者をどこまでも守るという神の約束です。そして神は、その約束を御子キリストの十字架と復活の出来事によって決定的に保証してくださったのです。
私たち人間が、どんなに不信仰で神を信じなくても、「御子キリストの故に、あなたの罪はすべて赦されている。だから安心して神に立ち帰り、キリストの命に生きる者となりなさい」と、神はどこまでも私たち一人ひとりを招いていてくださるのです。ここに、神の計り知れない憐れみ、愛があるのです。
「割礼」は契約の「しるし」(11節)として行われました。しかし、どんなに割礼を行っても、神への不信仰は止むことがないのです。それなら、割礼もまた主イエスによって克服されているのです。主イエスの十字架と復活の故に、今や「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6章15節)というパウロの言葉がすべてとなったのです。