メッセージ  (説教より)
「創世記」





「地上をさまよい、さすらう者となる」        創世記4章1−26節

 「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(4〜5節)とあります。なぜ神は、アベルとその献げ物には目を留められ、カインとその献げ物には目を留められなかったのでしょうか。それは、献げ物の種類(アベルは肥えた初子、カインは土の実りを献げた)の問題ではなく、献げ方の問題なのです。神の御前にあってアベルの在り方が神に喜ばれ、カインの在り方が神に問われたのです。
 神は、アベルの献げ方(礼拝、祈り)の中に心からの「謙遜」を見出す間にアベルとその献げ物を祝福されたのに対して、カインの中にそれ見出すことができなかった故にカインとその献げ物に対して「沈黙」をもって答えられたのです。神は、そのような「裁き」をなさるお方なのです。
 もしカインが、そのような神のなさり方に対して「疑問」を感じたなら、神に対して「怒って、顔を伏せ」(5節)てはいけないのです。その時には、どこまでも「顔を上げて」(7節)神に問うべきなのです。「神様、私のどこが問題なのですか。どこに神様に問われるべき問題があるのでしょうか」と。その時カインは、自分のどこに問題があるかに気づかされて、神への「謙遜」へと導かれ、カインもまた神の祝福の中に生きることができたはずなのです。それをしなかったところに、まさにカインの「不従順」があったのです。
 神に対して心を「閉ざす」間に、カインは罪の「支配」の中に置かれ(7節)、アベル殺害へと駆り立てられ、その罪の故に、神との交わりを失い、果てしなく「地上をさまよい、さすらう者」(12節)とならざるを得なかったのです。