メッセージ  (説教より)
「創世記」


「ヤコブの祝福と埋葬」   創世記48章1-22節

 ヤコブはヨセフに対する感謝の気持ちから、ヨセフの二人の子供マナセとエフライムを自分の子供として迎える祝福の儀式を行いました(5節)。その時、ヤコブは自分の腕を交叉させ、右手で左側にいる弟エフライムの頭の上に、左手で右側にいる長男マナセの頭の上に手を置いたのです(14節)。
 それを見てヨセフは不満に思い、「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください」と言って、父の右手をエフライムからマナセの頭の上に移そうとしました(17~18節)。
 しかし、父ヤコブはそれを拒んで、「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。 しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」(19節)と言ったのです。
 ヤコブがあえて腕を交叉させて、右手で弟エフライムを、左手で長男マナセを祝福した時、ヤコブの心に去来していたのは、若き日の自分と兄エサウとの確執のことだったのではないでしょうか。そして、その後の長い年月を経てヤコブの心に深く刻まれた信仰の真理は、神の祝福は生まれや、氏素姓、能力にはよらない、どれだけ熱心に神の祝福を求めるか、どれだけ真剣に神の救いを求めるかにかかっている、そういう思いだったのではないでしょうか。そしてこの信仰の真理こそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)とお語りになった主イエスのお言葉の真理なのです。