メッセージ  (説教より)
「創世記」


「主が共におられる」  創世記39章1‐23節

「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(2節)、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(3節)、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので」(21節)、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(23節)と記されています。
「主が共におられる」(インマヌエル。マタイ福音書1章23節)ということが、不思議な、神の救いの出来事として繰り返し語られています。
「主が共にいてくださる」という神の臨在の出来事を、どう理解したらよいのでしょうか。それは、何よりもまず、人の思いを超えた神の「選び」の出来事です。神が、ご自身のお考えに従って、ある人を選び、その人と共にいてくださることによって、あらゆる誘惑と危険から守ってくださるのです。
神に選ばれ、神が共にいてくださる「恵み」を与えられた人は、その時、どのような思いに導かれるのでしようか。その人の中に、「感謝」が生まれるのではないでしょうか。「神は、こんなに小さな私を憐れみ、罪を赦し、共にいて助けてくださる。それなら、私はいよいよ神を信頼して、この神の恵みを証しつつ生きる方でありたい」という「信仰」の認識を与えられるのではないでしょうか。ヨセフは、そのような信仰の決意をもって、困難な現実の中を忍耐強く誠実に生き、それが人々の信頼を得るところとなり、すべてが益となるように導かれたのではないでしょうか。
そのような信仰に私たちも生きる者でありたい、と切に祈り願うものです。