メッセージ  (説教より)
「創世記」


「ヤコブとエサウの確執」           創世記27章18-36節


 タイトルに「リベカの計略」「祝福をだまし取るヤコブ」そして「悔しがるエサウ」とありますように、創世記27章に記されていることは大変人間臭い、罪深い、弱い人間の姿です。このような人間の罪の姿が神の御前に祝福されることはなく、このような罪のために人間は互いに苦しまざるを得ないという事実を確認させられますが、ただ一つ言えることは、神はこのような人間の罪、弱さをも用いて御心を行われるということです。そして、すべてを益となるように導かれるということです。
 なぜリベカは、あえて夫イサクをだましてでも、弟息子ヤコブに祝福を与えさせようとしたのでしょうか。そのカギとなることが、創世記26章34~35節に記されています。長男エサウが異教徒であるヘト人の妻をめとったことが「イサクとリベカにとって悩みの種となった」と記されています。
 長男エサウは父イサクの信仰を受け継ぐことをなんとも思っていなかったのです。信仰のことには全く無頓着だったのです。母リベカはそのことを深刻に受け止め、長男エサウに父イサクの祝福を受け継がせることはできない、と堅く心に決したのです。だましたことが分かれば「わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」とおびえるヤコブに対して「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。」と言っています(12~13節)。
母リベカの強い決意が示されています。リベカの思いは正しかったかも知れません。しかし、その思いを人を欺く仕方でしか実現することができなかったところに、貧しい人間の現実があるのでないでしょうか。