メッセージ  (説教より)
「出エジプト記」


「民と共に歩かれる主」           出エジプト記34章1-35

 シナイ山で神との交わりの中にあったモーセの帰りが遅いことに不安を抱いたイスラエルの人々は、金の子牛を造り、それを神の臨在のしるしにしようとしました。しかしそれは、神の御前に重大な「偶像礼拝」の罪を犯すことでした。神の臨在を自分たちの支配の中に入れることを意味したからです。「モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた」(32章19~20節)とあります。モーセのそして神ヤハウェの激しい怒りが感じられます。
 問題は、神ヤハウェご自身がこのような罪を犯したイスラエルの民となお歩みを共にしてくださるかどうかでした。「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。」「あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない」(33章3節、5節)と語る神の言葉の中に、神ご自身の深い戸惑いが示されています。
 しかし神は「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。・・・わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである」(10節)と言われました。この言葉の中に、御子キリストの十字架の死が示されているのではないでしょうか。神は、遥か御子キリストの十字架の死を覚えつつ、「かたくなな民」と共に歩む道を選んでくださったのです。