メッセージ  (説教より)
「エフェソの信徒への手紙」






 教会の信仰に生きる         エフェソ書4章12−16節

 今年の教会総会において定められて教会標語「教会の信仰に生きる」について、要点を確認したいと思います。
 「教会の信仰」の反対は「自己流の信仰」です。自分が信じられる部分は信じるが、信じられない部分はカッコに入れて考えないようにする、そういう信仰の態度です。主イエスの教えは信じるが、主イエスの奇跡や復活や聖霊によるマリアの処女降誕は信じられないとして保留するのです。
 そのような信仰のあり方は、気持ちとしてはよくわかりますが、どこまでも自分の気持ち(理解)を中心とした信仰で、結局それは、信じる対象である神よりも自分を上に置き、自分を神とするような態度なのです。そのためにかえって、主イエスにおける神の救いを味わうことができないのです。
 聖書の信仰は、自分の理性では信じられないことを神の全能の働きの故に信じ、その神に全幅の信頼をもって身を委ねることによって、まさに全能の神の救いの働きによって心から信じる者に変えられる、そういう信仰なのです。主イエスの奇跡も復活も処女降誕も、そのような神の全能の働きによる出来事として心から信じることができるのです。代々の教会は、そのような神を信じ、その救いの恵みに生かされてきたのです。
その信仰を私たちも受け継ぐのです。私たちプロテスタントの信仰理解において大切なことは、救われた者もそれ自身はどこまでも神の御前に一人の罪人であるという認識です。その認識の中で、いよいよ謙遜に神の憐れみの恵みに頼ることによって、豊かな主キリストの救いに生かされるのです。