メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙二」


「宝を土の器に納める」   コリントの信徒への手紙二 4章7−15節

「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリス卜において取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(3章14−16節)とパウロは言っています。
「顔に覆いを掛ける」「心に覆いが掛かる」という表現が繰り返し出て来ます。これはなにを言っているのでしょうか。信仰を「律法」(良い業に生きる)という観点から考えている限り、「心に覆いが掛かり」、主キリストの救いを明確に把握することができない、ということを言っているのです。私たちは、キリスト者らしい実践、信仰者らしい奉仕、ということを問題にしますが、その前に、常にまず、心を「主の方に向け」、主キリス卜の救いの御業(霊的臨在)という観点から、信仰について考えなければならないのです。
 私たち自身は、神の御前に「土の器」(7節)に過ぎないのです。「土の器」である私自身の中に「宝」であるキリストの命をいただき、それによって私自身が「清められ」「強められる」ことを第一に考えなければならないのです。私たちはキリストの救いの御業に与って、自分自身が清められなければ、何の良き業もできない、その意味でもろく、壊れやすい、素焼きの「土器」(かわらけ)に過ぎないのです。そのことを踏まえずに、キリスト者の実践とか奉仕を考えると、心に覆いが掛かってしまい、主キリストの救いの豊かさ、力強さ、かけがえのなさ、「宝」であることが分からなくなってしまうのです。