メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙二」


「主の霊の働きによる」     コリントの信徒への手紙ニ3章12—18節


「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」(13節)とあります。なぜモーセは顔に「覆い」をかけたのでしようか。神との交わりの中で与えられた顔の「輝き」が失われることを恥じて、顔に覆いをかけた、とパウロ は理解したのです。顔の輝きが失われて、貧しい罪の現実が露わになることを恐れて、顔に覆いをかけたのです。自分の信仰の貧しさを恥じたのです。
しかしそれは、モーセが主イエス•キリス卜の十字架の赦しと復活の命を知らなかったからではないでしようか。主イエスの十字架と復活の患みを知るなら、私たちは自らの貧しい罪の現実を恥じて、顔に覆いをかける必要はないのです。パウロは自らを「罪人のかしら」と言って、自分の貧しい現実 を隠すことはしませんでした。むしろ、喜んで自らの貧しさを言い表し、主キリス卜の十字架の赦しと復活の命の恵みに豊かに生かされたのです。
「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(16節)とは、そういうことなのではないでしようか。主イエスの十字架と復活の恵みの方に心を向けるなら、私たちは自らの貧しい罪の現実を恥じて、顔に覆いをかけることなく、むしろ、罪人を生かしてくださる主イエスの救いの恵みを知って、深い喜びに満ちあふれるのです。その時こそ、顔の輝きを与えられるのです。
自らの貧しさを言い表して、主キリストの救いに頼る時、私たちは「主の霊の働きによって」「主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」(18節)のです。なんと感謝なことでしようか。