メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙二」


「キリストの前で赦す」   コリントの信徒への手紙二  2章5−11節

「わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」(10節)とパウロは言っています。
私が人を赦すとすれば、それは、主キリストの御前で、キリストの十字架の赦しを覚えつつ、心からその人を赦すことである、なぜなら、私自身が主キリス卜の十字架の赦しの故に、キリストの救いの恵みの中に生かされているのだから。そうパウロは言っているのではないでしょうか。
人を赦さないということは、その人に対して心を閉ざすことです。そして、その人に対して心を閉ざすことは、私たちが主キリストに対して心を閉ざすことになるのではないでしようか。主キリストは、私の罪を赦してくださると共に、その人の罪をも赦していてくださるのですから。それにもかかわらず、その人を赦すことができないと言って、その人に対して心を閉ざすなら、 それは、私たち自身が主キリストに対して心を閉ざすことになり、自分自身の救いの生活を危うくすることになるのではないでしょうか。
私たちは、自分自身の救いの生活を守るために、喜んで人を赦さなければならないのではないでしようか。「わたしがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです」(11節)と言っています。人を赦さない、赦すことができないという思いの中に、サタンはつけ込んでくるのです。その思いの中で、私たち自身の主キリス卜との生ける交わりが失われ、自らの救いの生活が危険にさらされるのです。主キリス卜との生ける救いの交わりの尊さを思う時、 私たちは喜んで人を赦さざるを得ないのではないでしょうか。