メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「死は勝利に飲み込まれた」       コリン卜の信徒への手紙一15章50—58節

 パウロは「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1章21節)と語りました。パウロは主キリス卜の霊的臨在の恵みを知っていたのです。牢に閉じ込められた限界状況の中でも、キリス卜が共にいてくださる恵みによって、パウロは不思識な心の平安に守られたのです。
 キリス卜が共にいてくださらなければ、死の恐れや不安、果てしない思い煩いの中で滅びる以外になかったのです。しかし、キリス卜が共にいてくださる恵みの中で、心の平安を与えられることによって、自分を悩ます敵に対しても、愛と赦し、執り成しの祈りを献げることができたのです。「生きるとはキリスト、死ぬことは利益」という言葉は、そういうキリス卜の霊的臨在の恵みに生かされる中で語られた言葉(信仰告白)なのです。
 キリストの霊的臨在の恵みの中で、キリス卜の全能の御力に与ることによって、あらゆる肉の働き、死の恐れや不安から守られるのです。「朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」(53節)とは、そういうキリス卜の救いの働きを意味しているのです。朽ちるべきものである私が、朽ちないものであるキリス卜を「着る」のです。私の汚れた罪の体の上に、キリストの清き命をまとうのです。すると、キリストの命が私を包み、私を内側から新しくしてくださるのです。キリストの命が死ぬべき私の古き命を飲み込むのです。このキリス卜の救いの働きを知る時、私たちは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(54~55節)と力強く宣言することができるのです。