メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「主イエスを記念する聖餐」   コリントの信徒への手紙一 11章23−26節

 聖餐の制定の言葉がここに記されています。聖餐の「制定」という言葉は、少し大袈裟にも聞こえますが、すべての人間の罪の贖いと赦しのために行われた尊い主イエスの十字架の死を覚えつつ、パンとぶどう酒をいただく聖餐の業を、「主が来られるときにまで」(26節)、従って、世の終わりまで、時が良くても悪くても、礼拝の最も大切な業として行い続けよ、という意味を込めて、聖餐の「制定」という言葉が使われているのであります。
 「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節、25節)と言われています。聖餐は、主イエスを「記念する」業なのです。「記念する」とは、思い起こす、という意味のギリシヤ語です。主イエスの十字架の死を思い起こすのです。主イエスの十字架の死を祈りの内に「思い起こす」ことの中で、十字架の死を遂げ復活された主イエスが、親しく私たちの魂の内に臨んで、私たちをイエスの復活の命の中に聖霊によって生かしてくださるという救いの出来事が起こるのです。そのようにして主イエスを「記念する」聖餐が行われるのです。このような聖餐を、私たちは礼拝の中心的な行為として行うのです。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)とあります。主が来られる時まで、時が良くても悪くても、どんな時でも、聖餐の業を行いながら、主イエスの十字架がすべての人間の罪の贖いの死であることを語り続けていくのです。私たちはそのような「聖餐の民」として生きていくのです。