メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「神の教会を見くびる」    コリントの信徒への手紙一11章17−22節

 「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。・・・神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(21〜22節)と、大変具体的な問題に立ち入ってパウロは語っています。
 当時の初期の教会の礼拝は、夜、「愛餐」(主イエスと弟子たちの食事の交わりを覚えての、会員相互による持ち寄りの会食)をした後で(する中で)、「聖餐」(主イエスの十字架の出来事を覚えつつパンとぶどう酒をいただく行為)を行うという形でなされました。その「愛餐」が乱れることによって、その後で行われる、最も大切な礼拝行為である「聖餐」が霊的意味を失い、無意味なものになってしまうことを、パウロは恐れているのです。
 聖餐に与る上で最も大切なことは、主イエスの十字架の死を覚え、自らの罪を言い表す悔い改めの心を献げつつ、パンとぶどう酒をいただくことです。それによって、主イエスの霊的臨在に生かされるのです。その聖餐の前に行われる、会員相互の愛の交わりである愛餐が乱れ、そこで勝手気ままな振る舞いが行われる(遅れて来る人への配慮ができない)なら、どうしてその後に行われる聖餐を真実に行うことができるか、それでは聖餐が形だけのものになってしまうではないか、というパウロの叱責なのです。
 聖餐が正しく行われるためには、愛餐が真実に行われなければならないのです。愛餐を軽んじることは、神によって召された者たちの集いである神の教会(エクレーシア)を見くびることになる、とパウロは言うのです。