メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「キリストを試みないように」       第一コリント書10章1−13節


 神の民イスラエルの指導者であるモーセは、シナイ山に登り、「四十日四十夜」(出エジプト34章28節)の神との祈りの交わりの中で「十戒」を授けられました。真剣な神との祈りの交わりの中で、聖なる律法が授けられたのです。
 それにもかかわらずイスラエルの人々は、モーセの帰りが遅いことに不安を抱き、もう一人の指導者アロンに迫って「金の子牛」の像を造らせ、それを自分たちの神として拝むことによって、安心を得ようとしました。(出エジプト32章)こうして神の民イスラエルは、祈りと信頼をもってモーセの帰りを待つべき時に、「偶像礼拝」に陥るという重大な過ちを犯したのです。
 偶像礼拝とは、神でないもの(被造物)を神として拝むことであり、まことの神を目に見える像にかたどって拝むことです。それによって心の安心を得ようとするのです。しかしそれは、生ける神を自分の支配の中に取り入れ、自分の都合のよいように神を利用することを意味するのです。
 私たちの信仰が「偶像礼拝」に陥る危険があるのではないでしょうか。主イエスの救いを自分の都合のよいように利用する危険があるのではないでしょうか。確かに主イエスは、私たちのすべての罪をその十字架の死によって、赦してくださいました。その赦しはしかし、主の命に与ってその清さに生きるための招きなのです。その招きに私たちなりに答える努力をすることが求められているのです。その努力を怠ることは「キリストを試みる」(9節)ことを意味するのではないでしょうか。それは、主イエスの救いを「偶像礼拝化」することではないでしょうか。そのことが問われていると思うのです。