メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「神の霊に生きる者として」   コリントの信徒への手紙一7章36−40節

 パウロは、コリント教会の人々の問い合わせに従って、第一コリント書7章全体にわたって結婚問題についていろいろな角度から語っています。結婚は、最も身近な問題であるだけに、信仰者としてどう受け止めたらよいか、当時の人々にとっても切実な問題だったのです。
 39節後半に「・・・再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。」とあり、信仰者同士の結婚の幸いが強調されています。
 信仰者同士の結婚のどこが祝福されているのでしょうか。それは、互いに自らの不信仰、不従順をよく知っている故に、夫婦の交わりの仲で、互いにいたわり合い、赦し合って、主キリストの救いに生きる信仰の歩みを励まし合うことができる、という点にあります。
 信仰者は自分がいかに主キリストの救いに頼らず、すぐ自分中心の歩みになりがちであるか、その点で主を拒み、主を十字架につける罪人であることをよく知っているのです。それにもかかわらず、まさに限りない主の十字架の赦しの中で、少しずつ信仰の従順を深め、主の救いに与って生きることが強められるように、忍耐強く導いてくださる天の神、御子キリストの憐れみの恵みを知っているのです。
 信仰者は、この奥深い信仰の恵みを知っている故に、夫婦の交わりの中で、互いを裁くことなく、温かい赦しの中で、少しでも主に頼って主の救いに生きることが強くされるように、互いに祈り、励まし合うようになるのです。ここに、信仰者同士の結婚でなければ持つことのできない幸いがあるのです。

 胎内に宿った双子が胎の中で争い合う現実に当惑したイサクの妻リベカに対して、神ヤーウェの言葉が語られました。「二つの国 民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(23節)と。
 この言葉は、信仰の戦いについて語っているのではないでしょうか。この世は神を認めない世です。神を信じないで生きることが、この世にあっては当たり前なのです。そういう世にあって、創造者なる神を信じ、御子イエス・キリストの救いを信じて生きることは、深い戦いを意味します。そういう世にあって、どんなに圧迫され深い誘惑を受けても、神を信じる者として「長子の権利」を守る者、即ち、神の子として生きる権利を守る者、その者こそ世にあって真の勝利者として、神の祝福の中に生きることができるのです。
 双子の兄弟エサウとヤコブが成長した時、二人の人生を二分する出来事が起こりました。疲れきって野原から帰って来たエサウが、弟やコブによってレンズ豆の煮物の代わりに「長子の権利」を譲ってほしいと求められた時(31節)、エサウは決してそれを認めてはならなかったのです。どんなに飢え渇き、煮物を食べたいと願っても、長子の権利と引き換えにすべきではなかったのです。ヤコブの行為は人間的にはフェアでないかもしれません。しかし、長子の権利が何よりも大切であると信じる信仰の故に、ヤコブは神に祝福されたのです。一杯の食のために「長子の権利を軽んじた」(34節)愚かさの故に、エサウは信仰の敗北者としての道を歩まざるを得なかったのです。