メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙一」


「甘んじて不義を受ける」    第一コリント書6章1−11節


 「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(7節)とパウロは言うのです。
 痛烈な言葉です。教会の中でのごたごたを教会の中で処理することができず、この世の裁判官に解決してもらわなければならない事態に立ち至ったとしたら、確かにそれはすでに信仰の敗北を意味しているのです。どのような形であれ、教会の中での争いを教会の中で、従って、信仰によって解決することができないなら、それは人間の罪に対する信仰の無力を意味することであって、そのような信仰は空しい、と言わざるを得ないのです。
 教会の中で不正が起こった時、教会の中で、信仰に基づいて不正が正されなければならないことは、当然です。「罪の処理」(マタイ18章15節以下)がなされなければならないのです。どこまでも悔い改めを求めつつ。
 そのことを踏まえた上で、互いの間に争いが起こった時、ことさらに相手の不義を追及するようなことは、慎むべきなのです。相手の不正を明らかにして、自分の正しさを誇るようなことは、慎むべきなのです。むしろすべてを正しくお裁きになる神の御手にゆだねながら、自らはいよいよ主キリストの救いに生きることに心がけるできなのです。たとえ「不義を受け」「奪われるままに」なるとしても。人間の不義を真に忍ばれ、苦難の生涯を全うされた主イエスを仰ぎながら。その時私たちは、一層深い主キリストとの霊の交わりの中に喜びのうちに生きることができるのです。