メッセージ  (説教より)
「フィリピの信徒への手紙一」


「教会の信仰に生きる」   フィリピ書3章12−16節


 代々の教会が信じて来た聖書の信仰の一つの特徴は、神の恵み(主キリストの聖霊による救い)は、人間的な「所有」にならない、ということです。
そのことを的確に教えてくれる聖書が、旧約聖書出エジプト記16章13節以下のマナの話であり、新約聖書フィリピ書3章12節以下の後ろのものを忘れ、前のものに向かって「前傾姿勢」で生きる信仰者について語る個所です。
荒れ野における神の民イスラエルの生活を支える神の恵みとしてのマナは、「朝ごとに」集めるべきものだったのですが、人々が明日与えられるか分からない不安に駆られて、翌朝まで取っておくと、そのマナは「虫が付いて臭くなって」しまったのです。マナはマナでなくなってしまったのです。
神の恵みは「朝ごとに」新しくいただくべきものなのです。また、朝ごとに与えてくださる神の恵みを信じるべきだったのです。それを信じることができない私たち人間の不信仰を、このマナの話は教えてくれるのです。
 パウロはフィリピ書3章12節以下で、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して」くださることを信じて「ひたすら走る」ことこそ、主キリストによって「捕らえられている」信仰者の生き方である、と語っています。
「後ろのもの」とは、すでに与えられた神の恵みです。その恵みにいつまでも囚われることなく、感謝しつつそれを手放し、新しく与えてくださる神の恵みに全身を向けていくことが、神を信頼する信仰者の生き方である、とパウロは言っているのです。この信仰に、私たちは召されているのです。