導かれて教会報から)

ゆっくりと少しずつ 
S・Y 
  もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある
    (ヨハネによる福音書9章41節 口語訳)

               
 「受洗に必要なことは何でしょう」との問いかけに、牧師からいただいた答えは「信じること」でした。しかし、その「信じる」ということの意味を理解することが、受洗前も受洗後も、私にはいちばんの問題でありました。
 聖書の記述の、ある部分は信じることができるが、別のある部分はよく判らないので、生半可な知識だけで簡単に「信じます」といってもよいのだろうか。はたして、他の人は、疑問や葛藤を抱くことなく「信じます」と言い得たのだろうか。昔から多くの人々に、永年支持されてきた老舗の暖簾の信用というだけで、信じることができるというようなものでは決してないはずだと思っていました。
 クリスチャンの生き方には、自分もそうありたいと思うところが少なからずあったので、心の奥に、若干の引っかかりを残したまま、「信じる努力」をしてみようと、少なからずある問題の解決を先送りにしたまま洗礼を受けました。
 受洗後いつの頃か、冒頭の一節が、なぜか心に響きました。
 そして、それまでの私は、自分に都合のよいことと、悪いことあるいは理解できず判断がつかないことを、選択していることに気付かされたような気がしました。福音のそれぞれの事象に、合理的な説明がつけば信じてもよいという、思い上がった考えであったことに気付かされました。自分は目が見えるのだから、自分で判断できるものと思い込んでいたのです。また、信じ続けることに自信が持てないことや、神様に嘘はつけないということを、「信じます」と素直に言えない理由にしていたような気がします。
 この頃から聖書の読み方にも変化が起きてきたように思います。
 たとえば、イエスの言われるとおりに、すべてを投げ捨てることができずにたち去った富める青年。聖書は青年のその後を述べていませんが、すべてを捨てて十字架にかかられたイエスのことを知った青年は、そのときに、イエスの言われたことの意味が解ったであろうし、そのことでイエスを信じ、救われたであろうと読み取りました。
 また、姦淫の女の話では、もし聖書の記述と異なり、自らを罪のない者だと自認する人がいて、石を投げつけようとしたらはたして。おそらくその場におられたイエスが身代わりになられたであろうと勝手な想像をしていますが、このことは、すべての罪を負って十字架にかかられたこととのオーバーラップを感じました。
 すなわち、聖書に記述された物語の上辺だけを順を追って読んでいたものが、聖書全体に流れているメッセージを、読み取るように変化してきたような気がして、何かしらうれしい気分を覚えます。
 受洗から一年半が経ちました。性分というものはなかなか頑固で、問題は未だ全面解決とは言えません。理性との戦いはおそらく一生続くことでしょうが、気持ちはいささか楽になりました。

 「受洗に必要なことは何でしょう」に続いて、「どうすれば信じることができるでしょう」との問いに、いただいた答えは「祈ること」でした。

 ゆっくりと少しずつでも変わっていくことができますように。