導かれて(教会報から)
私を支えたみ言葉 | ||
Y.O | ||
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 この御言葉はわたしが20才の時腎炎を発病していることが分って看護学校を中退して生涯腎炎という病気をかかえて生きてゆかなければならなくなった時、これが神様が私に下さった十字架なのだと思いました。その頃の私は洗礼を受けて間もない時で本物のクリスチャンになりたいと願っていましたので腎炎というという病気を自分の十字架として生きてゆく決心をしました。 腎炎は治る見込みのない病気で悪くならない様注意するしかないという事で結婚しても子供を産む事ができないかもしれないと言われていました。看護婦になって社会のために働きたいという夢が破れてせめて自分のためだけのナースになって自分の健康管理は自分でしてゆこうと決心したのですが、現実は大変な事でした。いつ病気が悪くなるか分らないのですぐそばに死が近づいているのではないかと思ったり不安がいつもありました。 主人と結婚する時心配をかけたくなくて病気の事を話しませんでしたので結婚してから病気の事で主人に相談することもできなくて。食事療法をしなければならなくてまず毎日の食事でつまづきました。私の作った料理を食べてもらえなくて結婚したばかりなのに私と結婚したことを後悔しているのではないかと思ったり聞いてみるのも恐くて。 子供を産む時期には何度もお医者様に反対されて、その頃は鎌ヶ谷伝道所の近くに住んでいましたので度々今井先生に話を聞いてもらいに行きました。いつも先生は大丈夫よ!大丈夫よ!といって励まして下さいました。でも私の不安は取れませんでした。そんな時母教会の岡山教会の先生が電話をかけて来て下さって「今は人生80年の時代なのだからまだ50年は生きていかなければならないのだよ」と言って下さって、その時はじめて「平均寿命というのは健康な人も病人も大人も子供もすべての人の平均なのだから病気があるからといって早死するとは限らないのだ」ということに気が付いてやっと安心する事ができました。 今透析を受ける身になってそれまでの不安がすっかりなくなって毎回太い注射を刺されるのがつらいのですが心は平安の中にあります。主人や何よりみなさんの祈りに支えられて心強い限りです。 |
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