導かれて教会報から)

 人は変えられていく
 U・T 
   クリスマスの祝会の中で証しをすることになり、何をお話ししたらよいかと、祈りつつ自分の歩みを振り返り、改めて随所随所に神さまが共にいてくださったことに気づかされました。
 その中から、私にとって深いかかわりのあった二人の人を紹介したいと思います。一人は高校時代の親友です。もう一人は私の父です。
 
 
その親友は子どもの頃からハンガリーに住んでおり、日本の一般常識にとらわれないユニークな人でした。お父さまは作曲家バルトークの研究のため、家族を連れてハンガリーにいらした方でした。
 彼女の家には何度も招かれご家族と共に楽しい時を過ごしました。ハンガリーの民芸品がたくさん飾られ洋風のしつらえでしたが、仏壇のある家庭でした。
 高校卒業後、彼女は音大に、私は女子大に進学し、それぞれ違う道を歩んでおりました。
 私が社会人として過ごしていた時、「会いたい」との連絡を受けました。久しぶりに会った彼女はいままでと、どこか違った感じがしました。今思えば心が平安だったのだと思います。
 そんな彼女から音大卒業後、神学校に通っていることが告げられました。それを聞いた私は、ただただ驚くばかりでした。それからも、会う度に彼女は変わっていき、私も彼女のようになりたい、どうしたらなれるのだろうかと思いました。その後、お父様も彼女と同じ神学校に通われ牧師の道を歩むようになりました。
 何がきっかけで教会に通うようになったのか、何が神学校に行こうと決心させたかは詳しく聞きませんでしたが、私の知らない所で色々な事を考え、求めていたのだと察します。その中で神さまにとらえられ、変えられていったのだと思います。

 
 次に、私の父のことをお話します。父も変えられた人であると実感しております。
 父は両親、兄弟はもちろん、親戚にもクリスチャンの多い環境で育ちました。洗礼を受けていないのは私の家族ぐらいでしたから、常日頃から、祖父から教会に通い洗礼を受けて欲しいと言われていたようです。晩年、祖父は泣きながら、祈祷会でこのことを祈っていたようです。
 しかし、父は職業柄、長期出張が多く、私が幼い頃は家に長くいたことがなかったように記憶しています。そんな多忙な日から解放され、定年を迎えた父は、それまでの思いがあったのだと思います。毎週欠かさず母と共に教会に通うようになりました。そして神さまの導きと憐みによって洗礼へと導かれました。その頃はもう祖父母は他界しており、この父の姿を見ることはありませんでしたが、きっと天国から喜んでいてくれると思います。
 父は寡黙で厳格な人でした。子どもの頃の私にとって、そんな父は怖い存在でした。しかし、教会に通うようになってから、変わっていったように思います。まるくなって、穏やかにうれしそうに話している様子は、娘の私にとってもうれしいことでした。
 今まで抱え込んでいた重荷をすべてイエスさまに下ろし、心が軽くされ、平安が与えられたのだと思います。人はこんなにも変えられるのだとつくづく思いました。
 
 
私自身も変えられてきたと思います。傲慢で生意気だったと思います。悩み、不安にもとらわれやすかったのですが、振り返りますと、その弱さにこそ神さまが臨んでくださり、変え続けてくださったのだと思います。これからも変えられていくのだと思います。
 自分を変えたいという思いはあっても、自分ではなかなか変えられないのです。しかし、神さまがそれぞれの人にそれぞれの仕方で臨んでくださり、時を備え、変えてくださる。
 私たちは自分も隣人も「変えられていく」存在であることに希望をつないで、変えられることを恐れず、これからも励まし合い支え合っていく群れでありたいと願います。