導かれて教会報から)

受洗にあたって 

   T.K 
 

 「求道生活35年」と家人にからかわれていますが、確かに結婚を機に教会に「出入り」するようになって、それくらいの年月は経っています。けれどもそれは、「求道」とは程遠く、運転手としてであったり、子守りであったりで、実態は「窮道」の方が当たっています。でも教会でオルガンを聞くのは好きだったし、牧師さんの話にも感銘を受けたし、私にとってはそれなりに有意義な時間で、充分に満足してきました。しかしながら、これでは「教会泥棒」と言われかねないという心配がどこかにありました。けれども、深く学んだわけでもないけど、仏教の持つ何か深奥なものに惹かれるものがあり、決断しかねるままに時を過ごしてきました。

 昨年4月に、娘が亡くなり、その折の牧師先生はじめ、教会の皆さんの温かいご奉仕にふれて、すこし気持ちが揺れてきました。それに、突然の出来事に動転していた私にとって、キリスト教の死生観には随分と救われるものがあり、さらに時間の経過とともに、娘の信じていた世界にふれてみたいという気持ちがわいてきました。

 信徒になっても、今まで通りの自然体で過ごそうと思っています。神学的な知識よりは、キリスト教の「知恵」を学び、個性というより感性で受け止められるものを信じたいと、今は思っています。私の内部で劇的な変化が生じようとは思いませんが、中に入ることで少しずつ何か違ったものが見えるのではと期待しております。

 「人生は苦なり」とお釈迦様は喝破しておられます。生きてゆくことはそれだけでも苦しいことが多いものです。それで残る人生の日々を、できれば『土曜の午後』のように過ごしたいのが私の望みです。吉田満穂先生のお言葉を借りるなら、ライオンの檻の中がいつも『土曜の午後』であればよいのですが・・・