導かれて教会報から)

「神の前に立つ時 愛の贈り物」
―フィリピの信徒への手紙4章15−20節を学ぶ―
 
T・I 
 祈りほど心が落ち着き、心がうるおされるものはありません。
朝のひととき神の御前に座し祈り、そして主と共に歩ませていただける事は感謝です。その様にして始めた一日は主よりの安らぎが与えられ、すべてを自然に受け入れられます。
 聖書の学びは、聖霊の働きなくして理解する事は出来ないと思います。私は知識としての学びにはあまり重きを置いていません。聖書の知識はふえても、私と聖書のかかわりを見出す事ができない様に思います。主が私に何を語りかけ求めていらっしゃるかが大切な事で、それは活字から受け取るものではなく、聖霊によって与えられ、それを私達が受け入れる事が聖書の学びだと思います。御言葉を受け入れる事は悟る事でもあります。それは「お話し下さい。僕は聞きます」という祈りによって与えられると思います。

 
「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」          (フィリピの信徒への手紙4章15−20節)

 今回与えられたこの御言葉は、贈り物について、贈る側贈られる側の心が記されています。
パウロとフィリピの教会との結びつきは他教会との間ではない絆があり、特にパウロの福音宣教の初めに贈り物をしたのはフィリピ教会だけでした。贈り物をされる事は、パウロの心を感動させ、喜びではあるが、「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。」(18節 口語訳)とまず神の恵の大きさに感謝しています。そして、「あなたがたの親切、思いやりの深さ、気前の良さ等が神の前であなたがたの勘定をふやす」(17節 口語訳)事になると語っています。即ち贈り物はパウロにあてたものではなく、神への供え物と解釈しています。「いと小さき者にした事は、わたしにした事である」「主にささげるなだ宥めの香り」等、種々表現されています。
 「あなたがたの益となる豊かな実」(17節)とは終りの日、神の前に立たされた時、神の評価の指針になる事であると思います。(コリントの信徒への手紙二 5章10節。ローマの信徒への手紙 14章10−12節)
神を愛し隣人を愛する贈り物は、キリスト・イエスによって以前にも増してあなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
弱い自分を支えて下さる方がわたしを強めて下さり、弱いけれど強く豊かな思いでいられるというパウロの姿勢、主の御心をいつも思う偉大な信仰と、わたしを救って下さった神にどの様に従っていくか、神の愛にどの様に応えていくかを思いつつ、天国への旅人としてこの世の歩みを続けていかなければならないと思いました。
 「愛する事」、これは主が私共に与えて下さった大きな贈り物だと思います。「和顔愛語」という言葉があります。私の大好きな言葉です。微笑、優しい言葉、これも私達に与えられた神様の贈り物であり、私達から他の方への大きな贈り物ではないでしょうか。