導かれて教会報から)

「神様に出会って」 
               ・・・ 一筋の希望 ・・・
K.S 
   私が鎌ヶ谷教会の門をたたいたのは、今から14年前になります。それまでは無宗教でした。きっかけは、病気です。当時の私はパニック障害と乳がんを患っていて、人生に希望を見いだせず、苦しい日々を過ごしていました。           
 パニック障害は、今では周知されている病名なのでご存じの方も多いと思われます。夕方の混み合う電車に当時1歳と4歳の子供達を連れて乗りましたら、不安感からか途中で息苦しくなってしまい、大変苦しい思いをいたしました。それ以来、その経験が頭から離れず、怖くて外出ができなくなってしまったのです。特に、電車、人混み、エレベーターなどが怖く、乗ろうとすると、また、混雑する場所へどうしても電車で行かなければならない時などは、思うだけで身体が重くなり、まるで身体中に鎖がまかれているようになってしまうのです。
 それでも、日常生活は毎日続き、育児を通して知り合ったお友達に外出するお誘いを受けても心の病の事は話すことができず、その日は都合が悪くてとお断りするしかなく、断ることが苦痛で自分の方から少し距離をおいてしまうようになり、寂しい思いをしていました。この心の病のことは、心療内科の先生と夫にしか打ち明けられず、辛い思いをしていました。しかしながら、子供達は成長期、できない事にフタをして、どうしても行かなければならない時には、夫に足になってもらいました。
 そんな生活を送っている中、今度は、胸にしこりが見つかり、乳がんであることがわかりました。幸いにもまだ初期でしたので、手術、治療と行い経過も良かったのですが、治療後、孤独感が強くなってしまい、生きていくのがむなしくてむなしくて、なんで私ばかりこんな思いをするのかと、とても苦しくなってしまったのです。
 そして、この気持ちをなんとかしたいばかりに鎌ヶ谷教会を訪ねたのです。なぜなら教会は、どのような人にも平等に門が開かれているという認識が、無宗教の私の中にもあったからです。
 突然でしたが、藁をもすがる思いでドアを開け、教会の中に入りますと、牧師ご夫妻がおられ、「よくいらしゃいました。」と笑顔で迎えてくださいました。そのことがうれしかったのか、その日の説教をお聞きしながら涙があふれ出てしまいました。   
その後から、牧師先生より一週間に一度お葉書が届くようになり、葉書には「半年、一年とお続けください、必ずや聖書の語る真理におふれいただけると思います。」と書かれていました。
 真理!真理って何?私は、訳が解らないまま、真理の意味を知りたくて礼拝に通うようになりました。牧師先生より、「Sさん、アーメンの意味が解りますか?」「お祈りは、最初に神様の御名を呼び、最後に“イエス様の御名によって祈ります”と言うのですよ。」と、少しずつ神様のことを教えて頂きました。そしていつからか、私も聖書を開くようになりました。
 そうしたある時に、箴言のある一節に、目が留まりました。それは、
 
 『わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
   わたしの言うことに耳を向けよ、
   見失うことなく、心に納めて守れ 
   それらに到達する者にとって、それは命となり
   全身を健康にする。』        (箴言4・20−21)

という御言葉でした。長い間、病気で辛い思いをしていた私は、健康になれる?神様の言葉を聞いて守れば?健康になれる?しかも聖書に書いてある!ならばこのことを心から信じてみよう、とその時に強く決心をいたしました。すると、どうしたことか、あんなに内向きで重たく暗かった私の心の中が開け、目の前にパァーと明るい道が示されたようで、生きる希望や喜びが湧いてきたのです。
 そしてさらに、礼拝の説教や基礎講座をとおして、私は、神様から愛されていたことや、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』(マタイ福音書11・28)という御言葉を知って癒されたり、お祈りによって神様に自分の思いを打ち明けられるようになりました。
 又ある時は、リディアの会にお誘いいただき、自分の当番の時などに、当時テキストに使っていた本に自分のこれまでのことを重ねて話し、今まで抱えていた苦しさをはじめて他の人にお話しすることができ、出席された姉妹方と分かち合うことができました。
 そんな教会生活での一つ一つが、時の流れの中で私の慰めとなり、身体中に巻かれていた鎖が少しずつほどけていきました。
 あれから、時がたち今でも教会生活を送らせて頂いていますが、当時のことを振り返りますと、
『希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』(ローマ書5・5)という御言葉がうかびます。
 あの時、あの御言葉を心から信じてみようと決心したのは、自分自身の気持ちであったように思っていましたが、実は、神様が与えてくださった聖霊によって、神様の愛がわたしの心に注がれていたのです。あの時、信じたことにより苦しみが希望へと変えられ、生きる力が湧いてきたのは、すべて慈しみ深い神様の御業であったことを知りました。