2024年8月4日 メッセージ要旨
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確かな道を歩ませる神

                                                箴言 16章9節                                                                                                                                       
     
   人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。 

                                        箴言 16章9節
                                                                 
 実力だけで勝利するとは限らない、予期せぬ出来事が起こり得る(伝道者の書9章11節)、オリンピックの競技の模様にそのことが示されています。
 人は自分で自分の人生のかじとりをしていけるように思いやすいものですが、そうではないのです(エレミヤ書10章23節)。人の一生は神の御手の中にあります。エレミヤも預言者として神に定められた独自の道を歩みました。彼が神から託されたことばは、民の罪のゆえにエルサレムが破壊され、民がバビロンに捕らえ移されるという、民にとって受け入れ難い預言でした。そのためエレミヤは迫害され、民から敵対視されてしまいます。そのような道に自ら好んで進もうとする人は、おそらくいないでしょう。主権者である神の召しが、そのような道にエレミヤを進ませたのです。
 サラも、リベカも、ラケルも、ハンナも、エリサベツも、皆不妊の女性でした。神が彼女たちの胎を閉ざされたのは、子を授かるということが、彼女たちの力ではどうにもならない、神の賜物であることを知らせ、神に栄光を帰させるためでした。現に、彼女たちから生まれて来た人物は、神から重要な役割を担わされた神の賜物です。サラは約束の子イサクを、リベカはヤコブを、ラケルはヨセフを、ハンナはサムエルを、エリサベツはバプテスマのヨハネを授かりました。
 同じように、神が道を閉ざされるのは、これから起こることが人間のわざではなく、神のみわざにほかならないのだということを悟らせるためです。人の思いや力ではどうにもならなかったのに、道が開かれ、ことが起こるのですから、それは神のみわざとしか言いようがありません。
 人は自分の思い描く道が一番良いと考えますが、神が用意しておられる道の方がはるかにまさっています(イザヤ書55章9節)。行く手をはばむ海が分かれ、道が開かれたように、自分の力ではどうにもならず、神の御手に強いられているとしか思えない時、思いも寄らないところに道が開かれ、人の思いと願いを超えたすばらしいみわざが行われるのです。
 神は人が思い巡らす道よりはるかにまさった確かな道に私たちを歩ませてくださいます(箴言16章9節)。ですから、神に信頼して自分をゆだね、神が備えておられる道に歩んでまいりましょう。