2024年3月31日 メッセージ要旨
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                    復活の主にとどまり続けて

                                         ローマ人への手紙 4章25節                                                                                                                                       
    
 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

                   
   ローマ人への手紙 4章25節                                                                 

 イエス様は私たちの罪を負って十字架に死なれました(4章25節)。キリストの血によって、信じる者は罪赦され、義と認められ、神との平和を得て救われます(5章1節、9節)。しかし、その贖いの死は、その後に復活が伴わなければ、効力を持たないのです。イエス様が十字架に死なれただけでなく、よみがえられたことで、わたしたちは贖われ、義と認められるのです(4章25節)。

 「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。」(コリント人への手紙第一15章17節)とパウロも言っています。もしイエス様の復活がなかったとしたら、キリストは罪ののろいを身に負って、死に打ち負かされてしまったのだ、ということになりはしないでしょうか。だとしたら、どうして他の人を義とし、罪から救うことができるでしょうか。死に打ち勝ってよみがえられたキリストだからこそ、人を罪から救うことができるのです。

 主の十字架と復活によって、信じる私たちは義と認められましたが、神との平和を持っているのであって(5章1節)、キリストから離れてしまったら、この恵みから離れてしまうのです。

 ぶどうの枝が幹につながっているように、私たちもイエス様につながっていることで、恵みにとどまることができるのです。イエス様から離れてしまったら、木から切り離された枝のように、私たちも枯れてしまいます。木の幹から水分や養分が枝に流れて成長するように、私たちもイエス様にとどまってることで、復活の主のいのちにあずかり、新しく変えられて行くのです(ヨハネの福音書15章4節、6節)。

イエス様が再び地上に来られ、この世が一新されて神の国が完成するとき、栄光に輝く主と同じ姿に私たちもよみがえります。そこに至るまでは、やがて朽ち果てて行くからだにあって、荒野のようなこの世の旅路を歩まなければならず、私たちは揺れやすいのです。主から離れてしまったら、罪のうちに死んでいた古い自分に戻ってしまいます。ですから、絶えず主にとどまり、自分を明け渡し続けてまいりましょう。

 主の十字架と復活により、私たちは罪赦され、義と認められ、神との平和を持つ者、神との親しい関係を持つ者とされました。この恵みに絶えずとどまって、復活の主のいのちによって新しくされ続けてまいりましょう。